USAコットンとかインド綿、
あとは超長綿など。
我々の身近にある綿製品には、
綿の原料となる木綿の産地や特徴をアピールした商品が数多く有ります。
今回は、日本でも一時期木綿の栽培がさかんに行われていた当時の様子を、
少し紹介したいと思います。
今から約400年前の江戸時代。
日本は歴史上、唯一の「綿花の時代、木綿の時代」だった。
元々、木綿は明や朝鮮からの高級輸入品として扱われ室町時代に国産を模索したが叶わず。
しかし、江戸時代に大量生産され江戸時代が終わると同時に消えた。
綿花は三味線同様、江戸時代を象徴
したとも云われる。
農民が種から実験を繰り返し、肥料を試し、様々な種類を作り出し糸を紡ぎ、またその紡ぎ機械を改良してゆき、機織りの技術を向上させていった。
工業が農村から分離したのは、近代工業が成立した明治以降からであって、
かつての農村は、加工技術を含む
「ものづくり」の現場だった。
江戸時代は農書が盛んに書かれた時代でもあった。
農民が積極的に農業技術マニュアルを書き、閉鎖的にならずに技術を共有しようとしたようだ。
今で云うオープンイノベーションでしょうか。
その中でも特に有名なのが1833年大蔵永常と云う農民が書いた、
綿花栽培マニュアルが『綿圃要務』
(メンポヨウム)だ。
こちらは何と国立国会図書館デジタルコレクションで、
インターネット公開されています。
その後、1860年の横浜開港とともに
機械生産の安い綿布が
イギリスなどから大量に
流入しました。
14年後には輸入綿布が、全綿布の40%を占めるようになり、
1893年に日本政府は綿花輸入関税の撤廃を決議して、安価な綿花が国内にどっと流入。
当然のことながら、綿産地は収入が
得られず綿花栽培をやめました。
それからは原料の綿糸を輸入し、
その原料で綿布を生産する様に
なった様です。
イギリスの産業革命による機械化
によって、大量生産が可能になったからですね。
その後、為替差益による
グローバリズム経済によって、
綿布はおろか縫製工場まで日本から消えてしまったのは、
記憶に新しいところ。
インターネット時代の現在にあって、AIとか更に技術革新が
くり返される中、
日本のファッション産業が、
この先どうのような方向に向かうのか。
改めて考えていきたいと思います。
<追記、、。>
鳥取県西部に伯州綿と云う
国産綿があるそうです。
伝統織物「弓浜絣」の
原料として細々と栽培が
続けられ、
わずかな種をもとに、
2008年から境港市農業公社が
本格的な復活に
取り組んでいる。
農薬や化学肥料を使わずに
手作業で育てられ、
繊維は太く弾力性に富み、
保湿性にも優れており、
バッグやタオルなどで
商品化されているそうだ。
イソベが担当しました。
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